江戸時代の飢饉は天災×政治の失敗⁉︎柳田國男と間引き絵馬

徳満寺 ぶらとね
徳満寺の石段(撮影 2022.11.17)

間引き絵馬

少年期の柳田國男が衝撃を受け、後の人生に大きな影響を与えたといわれる絵馬が、利根町の「徳満寺」にあります。日本民俗学の祖である柳田國男について知るためには、絵馬についても知る必要があると思い、本堂の横にある庫裏からお声がけをして、絵馬を見せていただきました。

「間引き絵馬」と呼ばれるその絵馬は、境内でよく目にする、合格祈願という願いが書かれた小型のものではなく、板状の絵馬です。以前は風雨にあたっていたこともあったそうですが、現在は額装された状態で、本堂の廊下に掲げられています。

絵馬は、何かを祈願する時か、祈願した願いが叶った時に奉納します。「間引き絵馬」が、どちらにあたるのかは明確ではないようですが、素朴なタッチで描かれた絵馬の画面からは、江戸時代の農村に暮らす農民の生活苦をうかがい知ることができます。絵馬を見せていただいた時、お寺の方が本堂の灯りをつけ、お線香をあげていらっしゃいました。「間引き絵馬」は、経年により顔料が薄れて消えかけている箇所もありますが、実際にあったことであり、普通の人々の生活から生じた願い、絵馬が奉納された時代背景を、わたしたちは忘れてはいけないように思いました。

「間引き絵馬」には、鬼となって赤子を間引く、女性の姿が描かれています。赤子を間引く背景には、間引きが慣習化されるほどに深刻な、江戸時代の農村の貧しさがあります。悲惨な絵です。

柳田國男は、利根町で2年ほど過ごした少年期に、この絵馬を見て、そこに何が描かれているのかを少年ながらに理解し、衝撃を受け、後の活動の根底になったといわれています。成城大学の民俗学研究所のHPには、次のような記述があります。

幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝国大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。

成城大学HP 民俗学研究所 https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagita/intro/(参照 2023.2.22)

柳田國男は「なぜに農民は貧なりや」という問いを持ち、大学卒業後には農政官僚となり、後に日本民俗学の礎を築きます。

「間引き絵馬」と「徳満寺」、「柳田國男」については、利根町役場の公式HPでも紹介されています。

貧困による間引きへの藩の対応(少子化対策)

将来の働き手となる赤子の間引きを防止するための策として、「赤子養育仕法」という制度を出す藩もありました。金銭や米・雑穀などの、養育料を支給する制度です。しかし、この制度には、労働力を確保して田畑の荒廃を防ぎ、年貢を確保するという狙いがあったとされています。制度が施行されても、農民の貧困は解消されず、間引きの慣習が絶たれるまでには時間がかかったといわれています。

間引き絵馬の時代背景(貧困と飢饉)

「徳満寺」の「間引き絵馬」が描かれた正確な年代は不明ですが、絵馬に描かれているのは、江戸時代の農村に暮らす人々の生活の貧しさ、苦しさでもあります。

江戸時代には、三大飢饉(天保の飢饉、天明の飢饉、享保の飢饉)の他にも飢饉が度々あり、ただでさえ貧しく苦しい農民の生活を、飢饉が一層深刻にしたとされています。

飢饉は天災×人災(負のシナジー)

三大飢饉のなかで、「天明の飢饉」は、東北地方や北関東に大きな影響を与えました。この飢饉について、国立公文書館のHPに下記のような記載があります。

天明年間(1781―89)の大凶作も全国各地に深刻な飢饉をもたらしました。なかでも東北地方の状況は悲惨そのもので、天候不順に領主側の判断ミスも重なり、多くの餓死者が出ました(津軽藩だけで死者10数万人に達したとか)。天明3年の浅間山の大噴火も、大気中に大量の微粒子を噴上げたことで冷害の原因の一つとなり、飢饉に拍車をかけたと言われています。

国立公文書館HP 飢餓 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/famine/index.html(参照 2023.1.25)

「天候不順に領主側の判断ミスも重なり」との記載があることから、この飢饉の悲惨さは、天災だけではなく、人災が重なっていたものであることがわかります。

また、杉田玄白が記した警世の書『後見草』にも、

われわれの想像を超えた「天明の飢饉」の光景が記録されています。地獄絵さながらの惨状を紹介する一方で、著者の杉田玄白は、領内から1人の餓死者も出さぬよう指導力を発揮した米沢藩主 上杉治憲(鷹山)を「賢君」と称えています。

国立公文書館HP 後見草 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/famine/contents/45/index.html(参照 2023.1.25)

藩主の指導力と適切な対応(持続可能な地域づくり)

『後見草』によれば、失敗した政治の一方で、成功した政治もあったということになります。杉田玄白が称えた上杉治憲(号・鷹山)とは、どのような人物で、どのような対応をしたのでしょうか。米沢市のHPに下記の記述があります。

財政が逼迫していた米沢藩に、縁戚の高鍋藩秋月家から迎えられた鷹山は、率先して大倹約を行うとともに、数々の殖産振興政策を展開しました。そうした中で養蚕と米沢織物が特産品に発展し、藩財政と人々の生活が立ち直りました。また、藩校・興譲館を設立するなど教育にも力を注ぎました。困難な状況の下、「なせば成る」の精神で改革を成功させた鷹山は、現在も理想のリーダーとして高く評価されています。

米沢市役所HP 米沢市のあらまし https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1393.html(参照 2023.2.22)

指導力(上杉治憲と家臣の「為せば成る」という強い意志)と適切な対応(大倹約と並行した殖産振興政策、教育など)が、地域社会の明暗を分けたといえそうです。

江戸時代のことではありますが、間引き絵馬の時代背景を追っていくと、現代に通じることがありました。温故知新。

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